3月15日(水) 修了の集いで話したこと
- 2017/03/22
- 15:02
修了の集いで私が話したことを掲載します。

はなむけの言葉
ただ今、修了生お一人お一人に手作りの修了証書をお渡ししました。
この修了証書は、高校の卒業証書のように、社会に出てから何らかの資格を証明してくれるものではありません。では単なる紙切れかというと決してそんなことはありません。卒業証書と同じように、いやそれ以上に皆さんにとって大きな価値のあるものだと思います。なぜなら、そこには、つらく苦しい状況の中で自ら決断し、神出学園の門をたたいてから2年、あるいは3年、また半年間の皆さん一人一人の物語が刻まれているからです。この修了証書が証明するのは、資格ではなく、自分を見つけ、自分を創ろうとしたかけがえのない日々です。そこに刻まれた50文字の言葉は、皆さんを支援してきたスタッフが一人一人に贈るはなむけの言葉です。
さて、皆さんが旅立っていく世の中は、必ずしも生きやすいところではありません。一歩踏み出そうとすると足がすくむようなこともあるでしょう。しかし、「とにかく始めなければ始まらない」ので
す。
詩人・茨木のり子さんの『詩のこころを読む』という本に、「生きるじたばた」というタイトルのついた章があるのですが、私はこの本に出会ったときから、「生きるじたばた」という言葉がとても気に入っています。「じたばた」を辞書で引くと、「ある状態から逃れようとして慌てたり焦ったりする様子」とあります。慌てたり焦ったりしているようでは、上手くいくような気がしません。どことなく無器用そうで、見ていてあまり格好いいという印象は受けません。「じたばた」には、どうもあまりいいイメージがないようです。
ここで、茨木さんの言葉が「生きるじたばた」であって「生きるためのじたばた」ではないことにちょっとこだわってみたいと思います。「生きる」と「じたばた」の間に「ための」をはさむとそこに打算が働いてしまいます。生きるためとはいえ、じたばた、つまり、慌てたり焦ったりするよりも、そつなくスマートな方がいいといった具合に、です。でも、傍目にはいくらスマートに、かっこよく生きているように見えても、実は、何とか自分をかっこよく見せようとして「じたばた」しているのですが、当の本人はそれに気付かなかったり、わざと目をそらしたりしがちです。このままいくと、「生きる」という営みから自分の姿が浮き上がってしまって、地に足の付かない人生を送ることになってしまいます。
「生きるじたばた」という言葉を、私は、「生きる」とはすなわち「じたばたする」こと、生きている以上「じたばた」から逃れることはできないという意味に理解しています。皆さんは、どちらかというと、人よりも「じたばた」することが多かったように思います。何かにこだわり抵抗するかたくなさに腹が立ったこと、なんでこの場面でそうするかなとあまりの不器用さにあきれたこと、何に傷つているのか理解できず戸惑ったことなど、数え上げればきりがありません。しかし、だからこそ、皆さんのことが愛おしいのです。無器用だけれど丁寧で、わがままだけれど案外素直で、弱々しく見えて実は「生きる」という地面にしっかり足をつけて歩んでいこうとしています。
神出学園を修了するにあたって、そんな自分を改めてかけがえのない大切な存在として愛おしんでください。その気持ちが新たな一歩を踏み出す勇気に繋がると思います。
保護者の皆様、ご期待に添えるような支援ができたかどうか心もとない限りですが、社会に旅立っていく子どもたちが安心してじたばたできるように見守り、支えていただきますようお願いいたしまして、私からのはなむけの言葉に代えさせていただきます。



はなむけの言葉
ただ今、修了生お一人お一人に手作りの修了証書をお渡ししました。
この修了証書は、高校の卒業証書のように、社会に出てから何らかの資格を証明してくれるものではありません。では単なる紙切れかというと決してそんなことはありません。卒業証書と同じように、いやそれ以上に皆さんにとって大きな価値のあるものだと思います。なぜなら、そこには、つらく苦しい状況の中で自ら決断し、神出学園の門をたたいてから2年、あるいは3年、また半年間の皆さん一人一人の物語が刻まれているからです。この修了証書が証明するのは、資格ではなく、自分を見つけ、自分を創ろうとしたかけがえのない日々です。そこに刻まれた50文字の言葉は、皆さんを支援してきたスタッフが一人一人に贈るはなむけの言葉です。
さて、皆さんが旅立っていく世の中は、必ずしも生きやすいところではありません。一歩踏み出そうとすると足がすくむようなこともあるでしょう。しかし、「とにかく始めなければ始まらない」ので
す。
詩人・茨木のり子さんの『詩のこころを読む』という本に、「生きるじたばた」というタイトルのついた章があるのですが、私はこの本に出会ったときから、「生きるじたばた」という言葉がとても気に入っています。「じたばた」を辞書で引くと、「ある状態から逃れようとして慌てたり焦ったりする様子」とあります。慌てたり焦ったりしているようでは、上手くいくような気がしません。どことなく無器用そうで、見ていてあまり格好いいという印象は受けません。「じたばた」には、どうもあまりいいイメージがないようです。
ここで、茨木さんの言葉が「生きるじたばた」であって「生きるためのじたばた」ではないことにちょっとこだわってみたいと思います。「生きる」と「じたばた」の間に「ための」をはさむとそこに打算が働いてしまいます。生きるためとはいえ、じたばた、つまり、慌てたり焦ったりするよりも、そつなくスマートな方がいいといった具合に、です。でも、傍目にはいくらスマートに、かっこよく生きているように見えても、実は、何とか自分をかっこよく見せようとして「じたばた」しているのですが、当の本人はそれに気付かなかったり、わざと目をそらしたりしがちです。このままいくと、「生きる」という営みから自分の姿が浮き上がってしまって、地に足の付かない人生を送ることになってしまいます。
「生きるじたばた」という言葉を、私は、「生きる」とはすなわち「じたばたする」こと、生きている以上「じたばた」から逃れることはできないという意味に理解しています。皆さんは、どちらかというと、人よりも「じたばた」することが多かったように思います。何かにこだわり抵抗するかたくなさに腹が立ったこと、なんでこの場面でそうするかなとあまりの不器用さにあきれたこと、何に傷つているのか理解できず戸惑ったことなど、数え上げればきりがありません。しかし、だからこそ、皆さんのことが愛おしいのです。無器用だけれど丁寧で、わがままだけれど案外素直で、弱々しく見えて実は「生きる」という地面にしっかり足をつけて歩んでいこうとしています。
神出学園を修了するにあたって、そんな自分を改めてかけがえのない大切な存在として愛おしんでください。その気持ちが新たな一歩を踏み出す勇気に繋がると思います。
保護者の皆様、ご期待に添えるような支援ができたかどうか心もとない限りですが、社会に旅立っていく子どもたちが安心してじたばたできるように見守り、支えていただきますようお願いいたしまして、私からのはなむけの言葉に代えさせていただきます。
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